【NOT≠EQUAL】限定三峯さんのコミュ
これはふせったーにあげたものをそのまま載せています。
三峰自身はコミュでも語っているように「素の状態の三峰」を「普段はうるさいくらい喋るふりをして」「臆病、ビビり、意気地無し」と評していて、少なくとも素の自分を好意的には思っていないように見えます。
コミュの最初に、アイドル三峰結華がいつもしているような眼鏡や帽子のない状態で、プロデューサーから「いつもの結華じゃないみたいだ」と言われたことにより、知らず知らず素の状態を出してしまっていたのではないか、と思い至りそれがとても怖くなったのではないかと考えられます。(そこが本人曰くの臆病、ビビり)
動点Pとの距離を求めよ、とのコミュタイトルはこの距離感の話で三峰はP(プロデューサー)と近付きすぎると素の自分を晒すことになるため、常にアイドル三峰の壁を挟み適切な距離を保つべきだと考えてるように思われます。
だからこそプロデューサーに『結華』という名前で呼ばれると、アイドル三峰じゃない素の三峰結華を感じさせて嫌だったのではないかなぁ、と。
そしてコミュタイトルでもある「雨の中での二度目の正解」ですが、一回目は最初の出会い、アイドルとしてスカウトしてくれたことの嬉しさ。
二回目はコミュの中でのプロデューサーの行動。特に二回目は迷惑をかけ、アイドルとしての三峰を演じられなくなってきた三峰をそれでも普通の事として探しに来てくれました。
そうして三峰は「普段の演じている姿も、そして演じていない姿もプロデューサーからしてみたらどちらも『アイドル三峰結華』なんだ」と気付くのです。
これらを経て三峰は少し素の自分を出してもいいかな、と思えるようになります。
それはtrueコミュで示されていて、trueではプロデューサーは熱を出してしまった三峰の家に行き、そこで三峰はばったり「完全にプライベートな状態で」プロデューサーと会ってしまいます。
いつもならそこで元気なアイドル三峰を演じ、素の自分を見られないよう直ぐにプロデューサーを帰したのかもしれません。
しかし少しずつ素の自分を出すことへの恐怖を克服して来ていた三峰は、自分の部屋にプロデューサーをあげて「素の自分」でプロデューサーと話すわけです。
コミュの最後、プロデューサーと三峰の会話の中で『プロデューサーが熱出したら三峰が看護してあげる』とアイドル三峰を演じたセリフを言うのです。(この『』が演じているセリフというのは、最初のコミュの冒頭で三峰が『』を使いドラマ?のセリフを言う場面でも使われています)
しかしその後思い立った三峰は、『』を外し、改めて素の状態でプロデューサーに感謝の言葉を言う……終わり!
熱に浮かされてつい一時間ほどで思い付いて書き殴った乱文なのはゆるしてくっだsssi
キャラクターの自我とAI雑記
以前のDDLC記事でも書いたことに重なるんですけど、これからAI技術等が発展していったらゲームのキャラクターはどうなるのだろうとか考えてました。
私は一応(?)オタクというか、二次元の格好いい、可愛いキャラクターが登場するコンテンツで楽しんでます。
じゃあ、将来そういったサブカルチャー向けのコンテンツでのキャラクターにAI(あまりそこら辺の話は詳しくないので言い換えると、"自我に近い、自分で考える機能")が搭載されていったらどうなっていくんでしょうか。
キャラクターがより人間らしくなる。
そう聞くととても魅力的ですよね。
人間のように考えて、人間のように反応して、そして人間のように話す。
でもそうなると、例えば可愛い女の子は「主人公(プレイヤー)に必ずしも好意を示さなくなる」のか……とか考えてました。
自我に近いものを持ったキャラクターはもうこちらを必ず、絶対に好きになってくれるとは限らないですよね。
勿論自我を持った上で好きになってくれたのならこれ以上に幸せなことはないでしょうが……
もしそこで「プレイヤーには好意的に対応をする」ようにプログラムされているとしたら、決められた誰かを好きにならないといけないようにされるとしたら、それはひょっとしたら残酷なことなのかも……ってことはddlcの記事にも書いた通りでチラッと思ったりもしましたね。
闇の思考……
ちなみにこの記事を書く都合上いつかの未来のAIを搭載したキャラを「自我のあるキャラ」と述べましたが、じゃあ今の私達が遊んでいるコンテンツのキャラクターは自我がないのかというと。
自分としてはそうではなく、それがただの文章であっても、積み重ねられた言葉は一人の人間像を形成しているのだと信じています。
ここら辺については本当にDDLC(ドキドキ文芸部)をやると考えが変わると思います。マジです。
やろうね、ドキドキ文芸部!
物凄いぶつ切りですが雑記はここまで。
関係のない話ではありますが、自分の好きな二次元のキャラクターのことを「キャラ」と呼ぶのに違和感を感じるんですけど、何かいい呼び方はないでしょうか。
なんていうか、好きな人物だからこそ「キャラクター」と呼ぶのは少し躊躇してしまいますね。
上手い言い換えも用意しておきたいもの。
例:「○○という作品で自分が好きな"キャラ"は、~」
窓に訪れた光と田中琴葉のシルエット(影)
ミリオンライブの田中琴葉のシルエットを聞いて、今さらながら感想を遺しておきます。短いです。とりとめもない感想文、雑文なのでどうかお時間があれば。
私は田中琴葉の「シルエット」という曲を聞きました。
その曲を聞いて、色んな感情が溢れ出てきて決壊しそうにもなったのですが、ひとつだけふとした疑問を抱きました。
シルエットの歌詞にも登場する通り、この曲のテーマには「光」があるのだと思いました。
それは、例えば朝焼けのクレッシェンド(朝焼けという光)や、ホントウノワタシの「待ちわびてる 窓に訪れる光を」という歌詞にもそれに近しいテーマはあったと思います。
でも、琴葉の新曲の曲名はシルエット(影)です。
"影"という曲名であるからには、琴葉の弱い部分を表した曲なのかな、と目星をつけたのですが、それにしては悲壮感や暗い曲というよりは前向きな「希望」のようなものを感じました。
そんなわけで、どうしてシルエット(影)なのだろう、琴葉の影とはなんだろう、と考えたりしていました。
このまとまりのない文は、それについてほんのちょっとだけ考えてみたものです。
さて、田中琴葉は強く、そして弱さの二つを両方持っているアイドルだと私は思っております。
それは矛盾するものではなく、その弱さ無くして強さはなく、その強さ無くして弱さはない、と言った風な表裏一体のものであると私は考えています。
人の一面だけを見て、「この人は強い人だ」「この人は弱い人だ」と決められないのと同じですね。
某Pさん(他のブログでシルエットについてお話をされていた方)もおっしゃってたのですが、シルエットは朝焼けのクレッシェンドとホントウノワタシの二つを……そんな琴葉の強さと弱さの二つの面を表した曲だと思います。
さて、では琴葉の表裏一体の強さと弱さとはなんでしょうか。
それは「理想の自分になる為に、妥協せず努力し続けることができること 」なのだろうと私は考えています。
琴葉の皆が想う理想の人物像、そんな誰からも「さすが琴葉だね」「琴葉なら大丈夫」と言われるような、そんな自分になりたいという理想を琴葉は追いかけ続けているのだと思います。
そしてこの「琴葉なら大丈夫」という言葉が重石ともなり、琴葉自身を縛り付けていたのかもしれない、とも。
それは誰よりも生真面目で、責任感の強い琴葉だからこそ、自分に課した理想の影「シルエット」は重くなった。
シルエットという曲名は、「琴葉の理想像」と、そして(琴葉が自分で考えている)琴葉の弱さのことでもあると思います。
確かにシルエット(理想像)は素敵なものだったけれど、シルエット(影)を見れば見るほどに自分の弱さばかりが目についた。
そして自分に妥協をしない……できない琴葉は、それが重石になろうとも、周りから望まれるような、「琴葉なら大丈夫」だと言われるような理想の自分自身になろうとした。
つまり、シルエットとは琴葉の理想像であり、そして自分の弱さを浮き彫りにするものでもあったのかと思います。
「私、プロデューサーにリーダーを任せてもらって、嬉しかったんです。その期待に応えなきゃって……。」
「いつだったか、おれがいなくても大丈夫そうって言われちゃったこと、ありますけど…。」
「そんなことない…。だって私、ほめてもらいたいだけなんです。」
「認めてもらいたい。必要とされたい。隣にいるのは琴葉がいいって、言ってもらいたい…。」
「あの、わたし、頑張ります。これからも。」
琴葉のセリフに上記のような言葉があります。私はこれが何よりも琴葉の核心に迫った言葉だと考えています。
認めて貰いたかったから、誉めて貰いたかったから、必要とされたかったから……だから、理想の自分を演じ、求め続ける。
でも、部屋に帰れば、服を脱げば(本当の自分と向き合えば)、自分の本質は変わっていない。
ホントウノワタシの「変われない、変わりたいのになぜ?」という歌詞の通り、理想の自分を「演じる」だけでは理想の自分に「為る」ことができない焦燥感。
琴葉は誰よりも理想とする”自分”の像が高かったからこそ、今の自分の内面を人に曝け出すこと怖くなってしまったのかな、と。
「本当は泣きたくて、誰よりも臆病で、心はこんなにも脆くて……」
さて、みなさんご存知(?)、シルエットには次のような歌詞があります。
「彼女は誰のせいにもせず、ずっと自分と向き合って、私が私から逃げているとき きっと闘っていたんだろう」
この「彼女」は誰なのかなぁ、とボーっと考えていたんですけど、それは「アイドル田中琴葉」なのかなぁと今は思っています。
(メタ的に考えたところ、ひょっとしたら種田さんの心情とのリンクも考えられているのかも、と思ってます。ただ、これは本当にあくまで私の個人の欲望ではあるんですけど、メタなだけじゃなくて作中の誰かに結び付けたかったんです。なので特に主観と願望入りです。ゆるして…)
「彼女」が誰を指しているのかは恐らく物凄く多岐に渡る考えがあると思うので、これもまた私個人の想像ではありますが、
「今までに演じてきたどんな私よりもカッコよくて、キレイで、纏う光はとても眩しくて……」
という歌詞の、「どんな私よりも」という部分が"琴葉自身"と結びついているのかな、と感じました。
つまり、琴葉は各場面や状況において、その場に適した「理想」を演じてきた。だからかつての琴葉の内に存在していた理想像っていうのは絶対的に一つじゃなくて、いろんな理想像が内在していたのかもしれない、と思います。
そして、その中でも特に光り輝いて見える一つの理想像が浮かび上がった。それが「理想のアイドル田中琴葉」なのだと思っています。
だから「今まで演じてきた”どんな私よりも”」という風に、「複数の”私”(琴葉の中の複数の理想像)」と比較される形で表されているのかな……と。
ここで朝焼けのクレッシェンドとホントウノワタシの歌詞の一部を引用します。
「抱き締めた自分を信じているよ
わたしがわたしで居れるように」
「抱き締めた自分を信じている」というのは、理想の自分に強い憧憬を抱いていることだと思います。
ここは少し完全な私個人の所感ではありますが、「理想の自分を強く信じること」というのは、「今の自分を信じきれていないこと」に近しいものがあるのでは、と思います。
今の自分に納得がいかないからこそ、今の自分の欠点が補完された完全な理想を目指す。
そして琴葉の目指す理想は誰よりも高かったからこそ、余計に今の自分の力の無さが浮き彫りになる。
琴葉はそういう部分があったというか、理想の自分と現実の自分を比較して、自分を余計に追い込んでいたのだろうなと。
でも琴葉はプロデューサーと、そして765プロのかけがえのない仲間たちと出逢って、誰にならずとも、誰かを演じなくても、自分は自分のままであってもいいのだろうかとここで思い始めた。
ありのまま琴葉を受け入れてくれる仲間ができた。強さを、能力を認められるだけでなく、何よりも”弱さ”をも認めてくれた。
そして誰にならずとも、ありのままの自分にも光があることに気が付いて、琴葉も自分自身をちゃんと認めてあげることができたのだと思います。
そしてここが何よりも琴葉らしいと思うんですが、苦しくても、辛くてもそれでも尚琴葉は理想の自分に変わりたいと思ってるのではないか?と私は考えています。
「ちゃんと変わりたい 踏み出すこの一歩 どうか見届けていて」
でも、琴葉はもう一人だけで悩む必要はない。
琴葉には、例えばプロデューサーとか、765の友人達といった仲間ができました。
灼熱少女などのユニット公演を通して、一人で悩むのではなく、時に頼り時に仲間と衝突することができるようになりました。
特に、琴葉が恵美と「衝突することができた」というのは本当に大きな一歩だと思いますね。
それは、一人で抱え込んでしまうという琴葉の性質が少し変わったということなのかもしれません。
そもそも私は「琴葉は理想の自分を演じようとした」と述べましたが、これは少し言葉を悪くした表現ですね。
自分の理想を演じるために苦しみ、努力して、欠点を見つめて、そしてまた理想に近づくため進む……私はそれを「成長」と呼ぶのだと思います。
最初に琴葉の強さと弱さは表裏一体のものであると述べましたが、琴葉は自分の強さと弱さのうちの「弱さ」にばかり目を向けてしまっていただけで、最初からその弱さの裏には「琴葉の強さ」が存在していたんですよね。
悩みながらも、苦しみながらも、それでも一度願った夢は諦めなかった。
「迷いながら、手離せなかった夢なら本物」なのだと思います。
では最後に、(ここだけ読めばだいたい分かる)まとめになりますが、そもそもこの感想文を書こうと思ったのは、ミリオン5thの種田さんのステージで、曲中ずっと光が種田さんを照らしていたのが印象的だったからなんですよね。
その演出は、「琴葉が光に照らされている」というよりは「琴葉自身が光を放っている」ように見えました。
ここで、最初の疑問に戻させて頂きます。
じゃあなぜ、曲名はシルエットなのか?
シルエットって言われて、私が真っ先に想像するのは真っ黒な影です。(あまり詳しくは調べてないんですけど、やっぱり影絵とか、”影”の意味があると思います)
そして、シルエットの歌詞の最初も
「誰かの影を重ねるだけ」から入ります。
しかし、影が生まれるには勿論光が必要で…。
じゃあ、その光はどこから来たのか?
「誰かの影を重ねるだけ」なら、その影を作り出した光は誰の光なのか?
ホントウノワタシにはこんな歌詞があります。
「待ちわびてる 窓に訪れる光を」
琴葉は家の中で服を脱いで(本当の自分自身に戻って)、光をずっと待っていたんです。
そして、その待ちわびていた光をプロデューサーがくれたのだと考えています。(あなたがくれた光)
でも私はそんなことは全然なくて、その光は琴葉自身が元々持っていた輝きだと思っています。
琴葉が自分では気付かなかったとしても、最初から、ありのままの琴葉が光を纏っていた。
誰にならずとも、誰かを演じずとも、最初から琴葉は琴葉の光を纏っていた。
それが、前述したように「琴葉は自分の弱さを見ていただけで、その裏には強さが既に存在していた」なんですよね。
琴葉は自分のシルエット(理想像であり、そして自分の弱さが浮き彫りになるもの)を見ていたけれど、その影を生み出した光は他の誰でもない琴葉の内側にあったものなのだろうな、と。
影があるということは光があるということで。
シルエットという曲名は「最初から、ありのままの田中琴葉が光を纏っていた」…ということを表していたのかなと思います。
「私のまま 光るよ」
惡の華(漫画)
多分この漫画の考察や詳細な感想などは他のブログなどで散々書かれていると思いますし、自分などではそこまで感想が至らないので、ちょっとした備忘録ということで非常に短いですが残していきます。
惡の華という漫画は、本当に「青春してるなぁ~~~~」って漫画なんですよ。(誤解を招く表現)
この漫画の中の「青春」は、一般的な青春とはかけ離れているようで誰もが心のどこかで感じたことがある青春だと思います。
やりたくもない、その場(クラス)に適応するためのうわべだけの会話、周りに良く思われたい(嫌われたくない)が故の上っ面だけの対応、態度。
青春時代の子供たちの心の部屋には、「嫌われたくない」と書かれたポスターが張りめぐらされているような、そんな気がします。
好きなことを好きというのも難しく、嫌なことを嫌というのも難しい。
惡の華は高校生の、人の皮に隠れた明かせないドロドロした欲望、願望を明かしていく作品です。
そして、そうして、それでも、最後には青春は終わり大人になっていく。
大人になればもう二度と子供の青春には戻れない。
この漫画を読んで、一抹の寂しさを感じた方もいると思います。
最後になりますが、私の好きなamazarashiというバンドの「月曜日」という曲の歌詞に
「普通にも当たり前にもなれなかった僕らは、せめて特別な人間になろうとした」
「特別な人間にもなれなかった僕らは、せめて認めあうヒトが必要だった」
「それが君で、おそらく僕で、ゴミ箱にだってあぶれた僕らで……」
「息苦しいのはここが生きる場所ではないから、僕ら地球外生命かもね」
という歌詞があります。
惡の華はそんな、ある意味では誰よりも自分を包み隠さず、でもそんな彼らは社会に、世間(クラス)に認められず、その閉塞感と孤独を解放して、世界から抜け出したかった少年たちの、狂おしいほどに実直な青春が表された作品だったなぁと思います。
Doki Doki Literature Club!おわり(ネタバレあり)
Doki Doki Literature Club!、通称ドキドキ文芸部を終えました。
知り合いに勧められて始めたのですが、よくも勧めてくれましたねありがとうございます…
ちなみにこのゲームは無料でプレイできます。steamでダウンロードできるので、気になる方でかつこのゲームの注意書きを何度も読み返して自分は大丈夫!という方は是非…是非?プレイをお勧めします。
それと、この記事はネタバレ満載なので、これからプレイする方は見ないほうがいいと思います。steamへ。
このゲームの概要を少し説明すると、このゲームは恋愛シミュレーションゲームとか、そういうジャンルのゲームが基になっています。
でも、察しのいい方……というより、もう始める前に9割くらいの方は気づいてらっしゃると思いますが、このゲームは心臓の弱い方や心が弱っている方や子どもはプレイしないでね!というゲームでした。
ここからネタバレも挟んで記していきますが、精神的にかなりクる描写とか、サイコホラーのような描写が出てきます。
ちなみに私が一番心臓にツララが突き刺さったのは、モニカがこちらのPCの前の自分の名前(人によっては本名を)を呼んでくる場面です。
だって適当なキャラクターネームを主人公につけてプレイしていたら、突然こちらのプライベートな、リアルにリンクしている名前で呼ばれるのですから、普通めちゃくちゃ驚きませんか……
ほかにも、サヨリが首を吊っているシーン、そのサヨリが死んでからの二週目のスタートでサヨリがバグとして排除されていくシーンなど。
特にサヨリが首を吊っている横で、コンピュータのプロブラムのバグ?が発生しているような場面は、本当に怖さを感じましたね……あれは目の前で起きてる惨状とあまりにも無関係なようで、でも何か関係しているのか?という焦りもあってひたすらにやばかったです……
ちなみにキャラクターが闇を発しているシーンでは主人公が無言になることが多いです。
特にモニカが「こちら」に話しかけている時は「主人公」は全然喋らなくて、細かいなぁと。
そして始まった二週目でも、ところどころでバグやプログラムのエラーが発生し、正常な画像が表示されなかったり、登場人物の記憶が改竄されるシーンなど精神をジワジワと削るようなシーンの連続……これはもう本当にきつかったです……
恐らくここが一番精神を削ってくるところ。この後から徐々に恐怖とは違う感情が生まれてきました。
そして、モニカとの「こちらの世界とあちらの世界の境界」での対面シーン。
モニカは冷静に、でも気分を昂らせながらこちらにすべての真相を明かしてくる、まさに「種明かし」の場面ですが、ここはゾッとするというよりは個人的にはどこか悲しい場面だと思いました…
モニカはこちらの世界と二次元の世界をどちらも認識しながらも、あちらの世界を出ることができない、孤独。
そればかりではなく、あちらの世界の「筋書き通りの結末(ゲームのストーリー)」に縛られて永遠にハッピーエンドを迎えることができないという絶望的な状況下にいるのですから。
モニカはあちらの世界では、おそらく唯一の「自分がゲームの世界の住人」であることを理解している人間で、それなのにあのゲームの世界にいる限りハッピーエンドを迎えることができない、ストーリー上の永遠の脇役で、そして永遠の孤独に取り残された少女。
「所詮はただのゲーム」という言葉で切り捨てることができない価値と、そして意思を持ち始めてしまった彼女の悲劇。それを考えると、モニカを悪とは呼べなくなり…
彼女の行いを正当化できるものではありませんが、彼女がサヨリ、ユリ、ナツキを消すという強硬手段に出たのは、どこか仕方がないところもあるのかもしれません。
だって、彼女からしたら言うなればサヨリもユリもナツキも、「プログラムで動く、意思のないゲームの世界の住人」なのですから。
もちろんモニカは彼女達と関わる中で愛着もあったと思います。でも、結局は「自分と同じで、でも自分と決定的に異なる世界の住人」だったから。
私も今までにたくさんのゲームをプレイしてきて、「ゲームの世界の住人のイノチに配慮する」ということをどれだけやってきたか、というと自信がないので……
「あっ死んじゃった、まぁゲームだからいいか」の軽い気持ちが、私にあるのと同様にモニカにもあったのかもしれませんね…
でも結局、最後の最後にモニカは
「軽い気持ちで消してしまった彼女達のことを、彼女達の世界のことを愛している人もいたのだ」ということに気が付きました。
そして、自分のやってしまったことの責任を取ったのです。
これは制作者の方は意図していたかは分かりませんが、こういう恋愛シミュレーションゲーム……というか、近年で見るいわゆる萌えゲーって、(勿論全部をやったわけではないので、例外は沢山あるのだろうけど)大体「主人公に好意を抱くような筋書きになっている」じゃないですか。というか、それを抜きにしたらそもそも恋愛シミュレーションゲームとして成り立たない。
その大前提を作中で公言するというのは、かなり挑戦的でどこか皮肉めいてるなぁ、と。(先ほど言った通り制作者の方がそこまで意図していたかは分かりません)
私は少し前に「キャラクターにAIを組み込んで、いくつかそのキャラに関する単語を入力することでAIを"そのキャラクターらしく"成長させて、自分から話しそうな言葉を考え、発言させる」という試みが行われていることを知りました。
そのことをツイッター上で「キャラクターにAIとか意思が組み込まれたら、もう必ずしもこちらに好意を表すことばかりではなくなるなぁ」と冗談混じりに呟いたことがありましたが、AIというものであってもそこに意思が存在するのなら、無理矢理「好意」をインプットするという行為はひょっとしたら残酷なのかもな……とかそういう闇の思考に落ち込みました…
話を元に戻して、ドキドキ文芸部はそんな、「まさか画面の中のキャラクターがこちらに干渉してくるはずはあるまい」という偏見というか、無意識下にこちらが"侮っていた"部分を突いてきた作品です。そこはアンダーテイルともちょっとだけ似ているのかも。
アンダーテイルもそうですが、「所詮はゲーム」「失敗してもセーブしたところからやり直せばいいや」という無限回挑戦できるが故の慢心に突き刺さる、「取り返しがつかないことの恐ろしさ」をも突き付けてくる作品でした。
また、よく私などは「画面の中のキャラクターが画面から出てきてくれたらいいのになぁ」などと今までにも思うことがありましたが、実際には画面の中のキャラクターが意思を持ってこちらに干渉をしてくることに恐怖を感じてしまった。
そういう部分に、結局は自分も画面の中の世界を真剣に考えることを軽んじていたのかもしれないなぁと。
最後に、少し前にやった某ゲームの中で、こんな問いがありました。
「二次元は、結局のところ二次元を越えることはできないのか?」
その問いに対する、同じくそのゲーム中の
「それが例え二次元の、人の手によって作られた作品だとしても、それを見た三次元の人間に影響を与えることはある。それはもう二次元を越えた三次元との接触と言えるのではないか」という答えが本当に好きです。
例えば、私達の世界でも手塚治虫のブラックジャックを読んで医者に憧れ、そして実際に医者になった人は少なくないと聞きます。
始まりは二次元の、私達の誰かが作り出した作品かもしれない。それでも、その作品が人を元気にする。その作品が人の生き方を変える。
それが例えゲームであっても、プレイした人達に何か少しでも影響を与えることができたのなら、それはきっと二次元の世界を越えたこちらの世界との交流なのだと思っています。
ドキドキ文芸部は、モニカはそういう影響を世界中に与えることができたのではないか。
そう思うと彼女が最後の手紙で「夢は全部叶った」と述べているのが、本当にその通りだといいなぁと。彼女はあの世界を越えて、此方の世界を今もどこかで見ているのかも知れません。
このゲームは恋愛シミュレーションゲームを装ったホラーゲーム……を装った、結局のところは恋愛シミュレーションゲームだったのかなぁと。
……ヒロインはもちろんモニカ。
ちなみに、もちろん私が一番好きなのはそのモニカです。
……というよりなぜこんな風にブログを開設して記事まで書いたのかというと、モニカというどこか悲しく、そして最後には優しさを取り戻した少女をなかったことにしたくないというか、「今までやってきたゲームの、ただの登場キャラの一人」にしたくなかったからです。それくらいドキドキ文芸部は特別な作品になりました。
ホラーなのは本当に苦手なんですけども、文芸部にいた時間は本当に本当に楽しかったです。
……怖いけどいつかまた再プレイできるかな。