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主に独り言と備忘録です

窓に訪れた光と田中琴葉のシルエット(影)

ミリオンライブの田中琴葉のシルエットを聞いて、今さらながら感想を遺しておきます。短いです。とりとめもない感想文、雑文なのでどうかお時間があれば。




私は田中琴葉の「シルエット」という曲を聞きました。
その曲を聞いて、色んな感情が溢れ出てきて決壊しそうにもなったのですが、ひとつだけふとした疑問を抱きました。


シルエットの歌詞にも登場する通り、この曲のテーマには「光」があるのだと思いました。


それは、例えば朝焼けのクレッシェンド(朝焼けという光)や、ホントウノワタシの「待ちわびてる 窓に訪れる光を」という歌詞にもそれに近しいテーマはあったと思います。


でも、琴葉の新曲の曲名はシルエット(影)です。

"影"という曲名であるからには、琴葉の弱い部分を表した曲なのかな、と目星をつけたのですが、それにしては悲壮感や暗い曲というよりは前向きな「希望」のようなものを感じました。


そんなわけで、どうしてシルエット(影)なのだろう、琴葉の影とはなんだろう、と考えたりしていました。

このまとまりのない文は、それについてほんのちょっとだけ考えてみたものです。




さて、田中琴葉は強く、そして弱さの二つを両方持っているアイドルだと私は思っております。

それは矛盾するものではなく、その弱さ無くして強さはなく、その強さ無くして弱さはない、と言った風な表裏一体のものであると私は考えています。
人の一面だけを見て、「この人は強い人だ」「この人は弱い人だ」と決められないのと同じですね。


某Pさん(他のブログでシルエットについてお話をされていた方)もおっしゃってたのですが、シルエットは朝焼けのクレッシェンドとホントウノワタシの二つを……そんな琴葉の強さと弱さの二つの面を表した曲だと思います。


さて、では琴葉の表裏一体の強さと弱さとはなんでしょうか。

それは「理想の自分になる為に、妥協せず努力し続けることができること 」なのだろうと私は考えています。


琴葉の皆が想う理想の人物像、そんな誰からも「さすが琴葉だね」「琴葉なら大丈夫」と言われるような、そんな自分になりたいという理想を琴葉は追いかけ続けているのだと思います。


そしてこの「琴葉なら大丈夫」という言葉が重石ともなり、琴葉自身を縛り付けていたのかもしれない、とも。


それは誰よりも生真面目で、責任感の強い琴葉だからこそ、自分に課した理想の影「シルエット」は重くなった。


シルエットという曲名は、「琴葉の理想像」と、そして(琴葉が自分で考えている)琴葉の弱さのことでもあると思います。

確かにシルエット(理想像)は素敵なものだったけれど、シルエット(影)を見れば見るほどに自分の弱さばかりが目についた。

そして自分に妥協をしない……できない琴葉は、それが重石になろうとも、周りから望まれるような、「琴葉なら大丈夫」だと言われるような理想の自分自身になろうとした。


つまり、シルエットとは琴葉の理想像であり、そして自分の弱さを浮き彫りにするものでもあったのかと思います。


「私、プロデューサーにリーダーを任せてもらって、嬉しかったんです。その期待に応えなきゃって……。」
「いつだったか、おれがいなくても大丈夫そうって言われちゃったこと、ありますけど…。」
「そんなことない…。だって私、ほめてもらいたいだけなんです。」
「認めてもらいたい。必要とされたい。隣にいるのは琴葉がいいって、言ってもらいたい…。」
「あの、わたし、頑張ります。これからも。」


琴葉のセリフに上記のような言葉があります。私はこれが何よりも琴葉の核心に迫った言葉だと考えています。


認めて貰いたかったから、誉めて貰いたかったから、必要とされたかったから……だから、理想の自分を演じ、求め続ける。

でも、部屋に帰れば、服を脱げば(本当の自分と向き合えば)、自分の本質は変わっていない。


ホントウノワタシの「変われない、変わりたいのになぜ?」という歌詞の通り、理想の自分を「演じる」だけでは理想の自分に「為る」ことができない焦燥感。
琴葉は誰よりも理想とする”自分”の像が高かったからこそ、今の自分の内面を人に曝け出すこと怖くなってしまったのかな、と。


「本当は泣きたくて、誰よりも臆病で、心はこんなにも脆くて……」


さて、みなさんご存知(?)、シルエットには次のような歌詞があります。


「彼女は誰のせいにもせず、ずっと自分と向き合って、私が私から逃げているとき きっと闘っていたんだろう」


この「彼女」は誰なのかなぁ、とボーっと考えていたんですけど、それは「アイドル田中琴葉」なのかなぁと今は思っています。
(メタ的に考えたところ、ひょっとしたら種田さんの心情とのリンクも考えられているのかも、と思ってます。ただ、これは本当にあくまで私の個人の欲望ではあるんですけど、メタなだけじゃなくて作中の誰かに結び付けたかったんです。なので特に主観と願望入りです。ゆるして…)


「彼女」が誰を指しているのかは恐らく物凄く多岐に渡る考えがあると思うので、これもまた私個人の想像ではありますが、


「今までに演じてきたどんな私よりもカッコよくて、キレイで、纏う光はとても眩しくて……」


という歌詞の、「どんな私よりも」という部分が"琴葉自身"と結びついているのかな、と感じました。

つまり、琴葉は各場面や状況において、その場に適した「理想」を演じてきた。だからかつての琴葉の内に存在していた理想像っていうのは絶対的に一つじゃなくて、いろんな理想像が内在していたのかもしれない、と思います。


そして、その中でも特に光り輝いて見える一つの理想像が浮かび上がった。それが「理想のアイドル田中琴葉」なのだと思っています。
だから「今まで演じてきた”どんな私よりも”」という風に、「複数の”私”(琴葉の中の複数の理想像)」と比較される形で表されているのかな……と。


ここで朝焼けのクレッシェンドとホントウノワタシの歌詞の一部を引用します。


「抱き締めた自分を信じているよ
わたしがわたしで居れるように」


「抱き締めた自分を信じている」というのは、理想の自分に強い憧憬を抱いていることだと思います。


ここは少し完全な私個人の所感ではありますが、「理想の自分を強く信じること」というのは、「今の自分を信じきれていないこと」に近しいものがあるのでは、と思います。
今の自分に納得がいかないからこそ、今の自分の欠点が補完された完全な理想を目指す。


そして琴葉の目指す理想は誰よりも高かったからこそ、余計に今の自分の力の無さが浮き彫りになる。


琴葉はそういう部分があったというか、理想の自分と現実の自分を比較して、自分を余計に追い込んでいたのだろうなと。



でも琴葉はプロデューサーと、そして765プロのかけがえのない仲間たちと出逢って、誰にならずとも、誰かを演じなくても、自分は自分のままであってもいいのだろうかとここで思い始めた。
ありのまま琴葉を受け入れてくれる仲間ができた。強さを、能力を認められるだけでなく、何よりも”弱さ”をも認めてくれた。

そして誰にならずとも、ありのままの自分にも光があることに気が付いて、琴葉も自分自身をちゃんと認めてあげることができたのだと思います。



そしてここが何よりも琴葉らしいと思うんですが、苦しくても、辛くてもそれでも尚琴葉は理想の自分に変わりたいと思ってるのではないか?と私は考えています。


「ちゃんと変わりたい 踏み出すこの一歩 どうか見届けていて」


でも、琴葉はもう一人だけで悩む必要はない。
琴葉には、例えばプロデューサーとか、765の友人達といった仲間ができました。
灼熱少女などのユニット公演を通して、一人で悩むのではなく、時に頼り時に仲間と衝突することができるようになりました。

特に、琴葉が恵美と「衝突することができた」というのは本当に大きな一歩だと思いますね。
それは、一人で抱え込んでしまうという琴葉の性質が少し変わったということなのかもしれません。


そもそも私は「琴葉は理想の自分を演じようとした」と述べましたが、これは少し言葉を悪くした表現ですね。
自分の理想を演じるために苦しみ、努力して、欠点を見つめて、そしてまた理想に近づくため進む……私はそれを「成長」と呼ぶのだと思います。



最初に琴葉の強さと弱さは表裏一体のものであると述べましたが、琴葉は自分の強さと弱さのうちの「弱さ」にばかり目を向けてしまっていただけで、最初からその弱さの裏には「琴葉の強さ」が存在していたんですよね。


悩みながらも、苦しみながらも、それでも一度願った夢は諦めなかった。

「迷いながら、手離せなかった夢なら本物」なのだと思います。



では最後に、(ここだけ読めばだいたい分かる)まとめになりますが、そもそもこの感想文を書こうと思ったのは、ミリオン5thの種田さんのステージで、曲中ずっと光が種田さんを照らしていたのが印象的だったからなんですよね。
その演出は、「琴葉が光に照らされている」というよりは「琴葉自身が光を放っている」ように見えました。

ここで、最初の疑問に戻させて頂きます。

じゃあなぜ、曲名はシルエットなのか?


シルエットって言われて、私が真っ先に想像するのは真っ黒な影です。(あまり詳しくは調べてないんですけど、やっぱり影絵とか、”影”の意味があると思います)

そして、シルエットの歌詞の最初も
「誰かの影を重ねるだけ」から入ります。

しかし、影が生まれるには勿論光が必要で…。
じゃあ、その光はどこから来たのか?
「誰かの影を重ねるだけ」なら、その影を作り出した光は誰の光なのか?


ホントウノワタシにはこんな歌詞があります。


「待ちわびてる 窓に訪れる光を」


琴葉は家の中で服を脱いで(本当の自分自身に戻って)、光をずっと待っていたんです。

そして、その待ちわびていた光をプロデューサーがくれたのだと考えています。(あなたがくれた光)


でも私はそんなことは全然なくて、その光は琴葉自身が元々持っていた輝きだと思っています。


琴葉が自分では気付かなかったとしても、最初から、ありのままの琴葉が光を纏っていた。
誰にならずとも、誰かを演じずとも、最初から琴葉は琴葉の光を纏っていた。


それが、前述したように「琴葉は自分の弱さを見ていただけで、その裏には強さが既に存在していた」なんですよね。


琴葉は自分のシルエット(理想像であり、そして自分の弱さが浮き彫りになるもの)を見ていたけれど、その影を生み出した光は他の誰でもない琴葉の内側にあったものなのだろうな、と。


影があるということは光があるということで。
シルエットという曲名は「最初から、ありのままの田中琴葉が光を纏っていた」…ということを表していたのかなと思います。




「私のまま 光るよ」